• 粉川哲夫「国際化のゆらぎのなかで―エスニック料理の行方」『世界』1989年8月号

80年代の「エスニック料理ブーム」がぶっ飛んでる。

 渋谷の宮下公園のそばに、タイ人の「一流シェフ」を呼び、ロンドンのデザイナー、マルコム・ポインターがインテリア・デザインをしているという「タイ・レストラン」がある。
(中略)
 外から見ると、一見ラブホテル風で、入り口にパリのレストランではおなじみの小さなメニュー・ボックスがあるのを見落とすと、ここがレストランであることはわからない。まして、そこがタイ料理の店であるとは誰も気づくまい。
 非常に重たいドアーを引いてなかに入ると階段が地下に伸びている。「秘密クラブ」の演出が見え見えである。レストランの内部は、完全に「西洋風」である。マルコム・ポインターのデザインなのだろう、蛇がとぐろをまいていたり、人の顔が浮かび上がったオブジェなどが飾ってある。
(中略)
 周りを見回すと、近くに24、5の女性だけの4人客がおり、少し先に中年の男と若い女がいる。いかにも「不倫」っぽいカップル。外国人の客は皆無。普通、エスニック料理の店に行くと、外国人の客の方が多く、またそういう店のほうが味もよいのだが、ここはちょっと違うようだ。おもしろいことに、どの席でも彼や彼女らはみな一様にワインを飲んでいる。料理のほうは「オツマミ」でしかないように。
(中略)
 案の定、トム・ヤム・グーンの味は、明治屋あたりで売っているトム・ヤム・グーンの素を買ってきて自分で作ったものと大差なく、そのほかのものは、マルコム君のオリジナル・デザインになるバカに重いフォークとスプーンがなかったら、1000円以下の料金しか請求できないだろうところの味だった。
 一皿食べ終わるとウエイターがサッとやってきて片づける。コース料理ならこれでもよいが、ちょっとせわしない。が、そのつどテーブルに来るウェイターが異なるので、二人のウェイターに同じ質問をしてみた。
「お店のK……というのはどういう意味?」この店はユダヤ密教の名前を店名にしている。
「神秘的哲学という意味です」
「タイとは関係がないんですね?」
「ございません」
 二人とも口裏を合わせたように同じ答えをしたところをみると、そう答えるよう教えられているのだろう。じゃあ、「神秘的哲学って何ですか?」「タイ料理の店がなんでユダヤ神秘主義の名前をつけるんですか?」と聞きたい衝動をおぼえたが、そんなことを聞いてもムダだと思いやめる。
(中略)
 いずれにせよ、初めは少し日本の文化と社会を揺るがせるかに見えたエスニック料理ブームも、ラブホテル風の秘密クラブ風のレストランで、日本人だけでワインを飲みながらタイ料理風の料理を食べ、アメリカ風に金を払って名ばかりのユダヤ神秘主義」風のおしゃべりをするといったところでおさまりそうである。

エスニック料理ブーム」と80年代の倒錯したカルチャーがミックスされてひどいことになってる。今の「屋台風」タイ料理屋も、わかりやすい演出になった(演出がこなれてきた?)だけで根本的なものは変わってないけど、さすがにユダヤ神秘主義の名前をつけたタイ料理屋やベトナム料理屋はねーよ。
これを読んで「80年代に生まれなくてよかったー」と思ったけれどぼくは思いっきり80年代生まれだった。残念。